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【コラム】私はわきまえた人でありたい

D&Iの研修の依頼があり、資料作りをしていて、ふと思い出した。
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗元会長の女性蔑視発言に対し、ツイッターで「#わきまえない女」がトレンド1位になったことを。
 
森発言については、引き際も美しくなく、彼こそアンコンシャスバイアスの塊みたいな人だと一言でまとめてしまおう。
 
私が気になったのは、女性たちの「私はわきまえない女です」という主張である。漢字で書くと「弁えない」。意味は①礼儀を知らず、厚かましいさまを意味する表現。②思慮分別がないさま。ネガティブな印象がして「私たちワイルドに傍若無人に振舞っちゃうわよ」みたいなニュアンスも感じられる。
 
会議に特定してみると、会議は意思決定の場だから、関係者が集まり、特定の目的(議題)に関して意見交換・審議することが必要である。これがなければ、合意・施策などの意思決定ができないからだ。ゆえに自分の意見を言うことがわきまえるということではないのか。
 
そうか。私はフリーランスゆえ、会議に出席するという機会がほとんどない。たまにクライアントの会議に出席することがあるが、忖度して意見を言わないなんてことがない。意見を言うために呼ばれたのだから。言いづらいことも伝えなくてはいけないが、そのために呼ばれたのだから。つまり、意見を言うことがわきまえることであり、だまっていたらわきまえていないことになる。
 
そうか。この違和感は前提が違うことなんだと気づいた。
でも、未だに本来の目的を果たしていない会議が巷に溢れているということだ。これを機会に気づいて変えなくては。
 
わきまえない女、わきまえる男なんて二項対立で討論しても、どうにもならない問題である。そもそも、会議のやり方を変えるほうが先じゃないという感じだ。